かおり先生対談する

さまざまな業態の事業者で「人が育つ土壌づくり」に勤しむ有限会社バックステージの河合義徳さんを招き、「経済活動での価値づくりのあり方と、子供達の主体性を伸ばす重要性には、深い相関性を感じる」という者同士で、楽しい対談をしました。


今の子供世代には悲観していない

河合 かおり先生は、今は子どもたちと向き合って英会話教室されていますが、ご自身の「働く」というキャリアでは、以前は全く違う経歴ですよね。

 

かおり そうですね。大人を相手にするITのパソコンの先生でした。

 

河合 ボクは、新たな価値を創る経済活動のいろんな業種の現場に身を置いていますが、「自分はどうしたいのか」という主体性を見失った大人があまりにも多すぎることに、危機感を覚えることが多いんです。

それは、個々の資質の問題よりも、育ってきた環境として、この国の教育って、どうなっているんだろうと…この国の教育のあり方に関心を寄せるようになっています。

 

河合 かおり先生は、社会に出てお仕事をされてきたキャリアを経て、今はこども英語教室の先生という立ち位置でおられます。

 

お互い立ち位置は違えど、かおり先生が「子供たちの未来はこうあって欲しいとか、子供達自身にもこんな歩みをして欲しい」という部分と、ボク自身が「教育というのは、これからこうあってほしいなって思う部分」が、おそらくどこかでで交錯するような気がしています。

 

かおり 教育関係の中にも「日本の教育を変えないといけない」と仰る方は、すごく多いんです。

私は、教育関係の学会などに所属してるわけではありません。

それでも、私自身が思うのは…、自分の目の前にいる子供達を見ている限りでは、実は「意外とイイ線いってるんじゃないかな」っていうところに結構落ち着くんですよね。

 

河合 かおり先生は、ご自身の身近にいる子供達の未来を、それほどは悲観してないということですね。

 

かおり そう、全然悲観してないんです。

もちろん、型にはまってるかなと思う部分とか、いろいろ「ん?」と感じることはあるかもしれません。

それでも、この子達が、学校や家庭であったり、家庭以外…それこそ地域受けている教育というものが、教育に危機感を感じている私達大人が持っているものとは、何か違ったものを子供たちは受け取ってるんじゃないのかなという気がするんですよね。

私達大人とは違った受け止め方をしていたら、子供達からのアウトプットが、きっと変わってくると思うので、そんなに心配しなくてもいいかなと思うんです。

 

河合 そうなんですね!

子供たちを間近に見て、それほど心配していないかおり先生と、ボクが多くの大人達と仕事をしていて、すごく心配に思う部分に「親和性」があるかどうか、もう少し探ってみたいんですが…

 

新たな価値づくりに挑む場面では、自分にはこれほどまで「主体性」を見失っていたのかと気づく場合があって、特に今まで一般的に「優等生」って言われてきた人ほど、今ちょっと苦しんでるということが結構あるんですよ。

 

かおり そうですね。それはあるかもしれないですね。

 

河合 ところが、その人たちのことばかりを責められないなと感じる理由が、そういう人達の過去の教育環境なんですよね。

要するに、どちらかというと、主体性を押し殺してでも協調性を重視させられてきた「同調圧力」みたいなものです。

 

いわゆる「標準化」「画一化」された育ちの流れのまま、会社の方針にどれだけ従順であるか・会社の方針に何の疑問も持たずにノルマ達成することが評価の対象となる。

そして歳を重ねて責任ある立場となったり、新規マーケットの企画仕事になったりして、今まで会社の指示どおりに動いていた人が、「自分はどうしたいというものはないのか」「自分にしかないものは何だ?」と急に言われるんですよ。

急に言われて「あれ?無いな…」と気づくと、いわゆる優等生だった人ほど凹みます。

 

かおり その人達は、人の言われたようにやることに、何の疑問を持っていなかっただけですよね。

だから、「自分のやりたいことは何か」という疑問を持ったら、その時点で変わっていけばイイだけなんですけどね…。

それに、その時がその人にとっての「タイミング」じゃないのかなという気もします。

 

河合 そう!つまりは「ターニングポイント」として、その瞬間を前向きに捉えればイイじゃないかっていうことになります。

それでも、「今回は、あなたらしい意見や方向性を示しなさい。」と求められると…「え?私らしさ?…私って、そもそも何だっけ…」と、大いに戸惑うんですよ。

 

かおり そういう人は、自分らしさの「答え探し」を始めてしまいますよね。

どうやったら自分らしくなれるのって、ネットでいろいろ検索してみたり、自己啓発のセミナーに行ったりとかして…。

それで、そこでも今度は「それはあなたらしくないです」って言われたら、「あ、違うんだ」って狼狽える。

でも、そもそもそこに自分らしさとは何かの答えなんかないでしょ。

 

河合 自己啓発セミナーだけに通うセミナージプシーになってしまうのは危険なんですよね。

他の人から大きな影響を受けたり、主体性を見失ってしまっている背景って、どこにあるんだろうと考えさせられるんですよ。

楽しく仕事をしていいんだ!

河合 そうした中、かおり先生の教室の卒業生3名と先ほど対話をさせてもらった後に、今日ボクとお話をして何が良かった?と聴いた時に、一人の女性が「日ごろ楽しくお仕事をしている大人って、本当にいるんですね。こんな大人がいて良いんだ!」と感じさせられたのが、今日の収穫でしたと言ってもらえたのは、凄い嬉しかったんです。

 

かおり いや、私こそ、こんなに楽しく仕事してるのにね!

河合さんのお仕事についての考え方が、そんなに楽しかったんやって…え?私、日頃そんなに楽しく仕事しているように見えてなかったん?!…楽しく仕事をしている大人を見るのが河合さんが初めてってことないやろ!っと、ちょっとショックでしたよ。(笑)

 

河合 そう悔しがるかおり先生が、おもしろい!

それでも…もしかしたら、それは彼女とかおり先生との立ち位置の問題かもしれないですよね。だって、生徒と先生という関係性であるのに比べると、ボクは彼女とは全くの第三者だから。第三者としてみた場合ってやっぱり印象が違うんですよ。そこは。

 

かおり それであったとしても、ちょっと意外でした。

「楽しく生きている私がここにいますけど!」って、言いたくなるくらいに…(笑)

 

河合 (笑)それでね…すごい象徴的だなと思ったのが、「楽しく生きて良いんだ」「楽しく働いて良いんだ」と素直に受け取ってくれるのは、社会人になっている人よりも、若い子の方が多いという点なんです。

だから、冒頭にかおり先生が、「今の子供達を見ていると、悲観的になることがない」という点につながるんですよね。

かおり そうそう。ホントにそうです。

 

河合 それで、既に社会に出ている人に見受けられる傾向として、オンとオフの切り替えが大事という意識が強すぎて、仕事オフの時は思いっきり楽しむけど、仕事中は…「そんな、仕事を楽しむだなんて」という得体の知れない罪悪感だったり、「仕事は楽しんではいけない」という固定観念のようなものが植え付けられてしまっている感じを受けます。

 

かおり それこそ教育ですよね。そういう教育を受けてきた世代なのかもしれません。

今の子供達は、今度は「楽しんで良いんだ」という教育をされている。

各家庭や学校の現場を見ていないから、実態は知らないんですが、おそらく楽しんで良いんだという風に変わってきているんですよ。

 

河合 楽しんでいいんだよっていうのが、家庭も含めて寛容に受けられるんだったら、子供たちもそれは素直に受け取りますもんね。

仕事を楽しんでいる様子を見ると、その様子を妬む大人は多い中で、まだ社会に出ていない子供たちは「無垢」であるということが、むしろ財産ですよね。

楽しんで良いという、人間としての根幹を見失っていないんですから。

でも、何が楽しいのかは、人によって全く違う。

今日も学生さん3名との対話の中で、「働いている時も、暮らしを築く時も、自分らしさを活かして生きる人になってほしい」とは伝えているけど、「私の自分らしさは何ですか」と君達に聞かれても、「それは知らんわ」としかボクは答えられないというやりとりもあって…。

 

かおり 「あなた」じゃないからね。

私には「あなたらしさ」は判らないですよね。(笑)

 

河合 今日の高校生3人だけじゃなくて、大学生や専門学生と話してても、「あなたの自分らしいところは、知らんわ」と言うと、突き放してるように見えるけど、大人達よりも子供達の方が「それはそうだ、それは自分にしか見出せないことだ」と受け止めてくれるんですよ。

ところが、さっき話していた自己啓発セミナーに行きすぎる大人達人たちって、「あなたらしさが何にかは知らんわ」と言うと、ものすごく突き放された気分になるらしくて辛くなるんですよ。

ここの「差」は、何だと思います?ここのギャップって…。

 

かおり 今の大人達は、構われ過ぎてるということもあるかもしれないですよね。

「こうあるべき」っていう固定観念に囚われているところはあるかもしれないですよね。

誰がつくった枠組みなのか判らないんだけど、「その中にいれば、とりあえず安全」と思ってしまいがちじゃないですか。

それで、その枠組みから出るのって勇気がいるし、出た先に何があるか判らないし、その枠組みの中でも充分がんばっているし、評価もされてるし、ここにいれば安心で安全だって思うと、出る必要がなくなりますよね。

 

河合 その枠にハマろうとしてしまう空気を自らか、周りからのどちらかに作られてしまっている。

 

かおり そう…だから、そうした固定観念で、もう満足してしまうんですよ。

不安定なことは悪いことではない

河合 ボクはいろんな事業者と新しい価値づくりに挑んでいる時って、決して奇をてらって、誰もがやっていないビックリするようなことをやってやろうなんて気構えは一つも無いんです。

 

暮らしの中で、こうすると心豊かになるよねっていう「あたりまえ」のことを確認しながら歩んでいるだけなんだけど、それでも新しいことをやる一歩目っていうのは、本当に勇気が要るんです。それが絶対に上手く行く保証や安定などが、何一つないからですね。

とても不安定ではあるけれど、なぜ人に価値として認められるまでやってみたくなるのか…自分達が感じている「あたりまえ」のことを未来に実現したいという意欲が勝るからです。

 

確かに身の危険を感じるような安全性の担保がないようなことは褒められたことではないですが、「安全性」と「安定する」というのは、全く 別の話のはずなんです。

ところが、いつのまにか「不安定」だと「危険」という思い込みが、多くの大人にあること…ここが日頃とても気になっています。

 

つまり、「安定」していれば「安全」なのか?というと、時代の流れや、世界的な変化を考えると、いま目の前にあることが「安定」しているから「安全」と思い込んでいると、気づかぬうちに自分達だけが取り残されている…なんていうこともたくさんあります。

 

ボクらは今、子供たちが歩む社会では、安全性は確保してあげながら、彼らが思いつくことが現時点では周りの人からしたら非常識なことかもしれないけど、自分達の感じるあたりまえのことを実現するというのは、今は不安定であったとしても、未来の安定と安全につながる可能性だって充分にあるんですよね。

 

かおり そうそう!誰かが、枠組みや常識から外れていかないと、盤石なものにならないですよね。

盤石にしなくてはいけないと感じること自体も、そもそも、不要なんですけどね。

 

河合 そう!…だから、不安定であることや、不完全であること自体を、徹底的に楽しんで良いんだというメッセージ性は、社会に出ている大人よりも、まだ無垢である十代の方が、素直に受け止めるんですよ。

 

かおり 今ちょっと思ったのですが、バランスをとるような遊具とか遊びあるでしょ?

あの遊具はグラグラしますよね…あれってグラグラするから楽しい!…なんだか、そんな感じですよね。

あれが全然動かないところに、ただ立つだけだったら誰も遊ばへんし…転んでしまいそうになるところを、なんとか自分で上手いことバランスとりながら何回もトライしていくのが楽しいんです。

まさに、あの遊具の感覚と一緒で「不安定」だから楽しめる。

 

河合 そうそう!そこの不安定さを楽しんでいるからこそ、今度は勝手に自分で安定する手ごたえみたいなのが出てくるんですよね。

 

かおり ポジショニングとか、どういうシチュエーションの時は、どの具合がいいんだという手応えですよね!

 

河合 かおり先生の遊具の喩え、面白い!

おそらく大人達よりも、幼い子のほうが、そういう感覚に素直なんでしょうね…。グラグラしたところで遊んでいて、めちゃめちゃコツつかんで、ピタって止まり始めるようになると、今度はそれがつまらなくなるから、また違う不安定な遊具に向かいます。

 

かおり おそらく…子供の方が、不安定さを求めてるんですよ!

それがとても象徴的で、面白いですよね。安定しないといけないという要素を押し付けられると、つまらないってなるんじゃないですかね。

…あれ?…なんか私ええこと言うたわ。(笑)

 

河合 めちゃくちゃ良いお話しですよ!

そのお話しで、さらにボクは二つほど思いつくものがあります!

遊びこそ自ら切り拓くもの

河合 一つ目は、かおり先生が喩えに出してくれた遊具の話と近いモノなんです。遊びというものは、本来は人に宛がってもらうものではないんですよね。遊びこそ、自分の興味本位と探究心によって、切り拓くものになります。

最初は、誰かに設えてもらう遊びだったり、親がどこか遊びの機会を与えることは全然良いんですが、いつまでも人に宛がってもらうのではなく、遊びこそ自分の感性を活かして、さらなる工夫や変化を自らしていっていくもの。

 

かおり 特に遊びの中にあるルールって、人を縛るためにあるんじゃなくて、自分とみんなが楽しくするためにルールがありますもんね。

 

河合 おっしゃるように、みんなでルールを作りながらなんだけど不安定だからこそ、もっと掘り下げたくなる…それで、もっと楽しむためにどうすれが良いのかは、誰に言われなくても自分達で勝手に考え始めます。

 

主体的に自ら行動していく体験の中から、アイディアが出てくるんです。そのアイディアによる実践が、なぜ「学ぶ」になるのかというと…怪我をするからですよ。

自分も怪我するだけではなく、他人に嫌な思いをさせてしまうこともあるかもしれません。

でも、遊び心があるから探究心も維持されるんです…実は大人の社会でも価値づくりの現場でも、遊び心を忘れずに自ら考えようとするチカラが求められているんです。

 

かおり そう…遊び心は仕事の場でも求められるもののはずなのに、いつの間にか「仕事場では楽しんではいけない」という固定観念が、漂っているだなんて、なんだか勿体ないですね(笑)

 

河合 そうなんですよ…大人になっても、宿題だらけですから…。

そうそう!…子供達に「夏休み」という言葉は使われながら、実態は宿題だらけで文字通りには全く休めないし、ボクは、小学生のうちは「夏休み」という言葉自体を廃止すれば良いのにと思っています。

先日ボクがコラム掲載した内容になりますが、小学生のうちは「夏休み」より「夏遊び」というネーミングに変えて「自由な遊び」を探究して欲しいんですね。

 

仮のボクが先生だとしたら、夏に1ヶ月という時間があるんですから「夏遊びの自由研究」は「去年よりも今年の方が楽しいと思える遊びを見つけてきて今年もレポートしてください。」という宿題の一つだけにしますね。それで充分ですよ。

 

それを2学期が始まったら、全員で発表し合って対話もするんです。

クラスに30人いたとしたら30通りの遊びが出てきてあたりまえになります。しかも、学力による点数比較ではないので、人と比べられたり、競い合う必要もなくなるだけではなく、どれだけ本気で自分が楽しんだ遊びなのかという話は、他の人に共感されることはなくても、比べ合うこともないので「否定」がないんですよ。

それが、多様性を認める根底にもなるし、そのうち、他の人の遊びにも興味が湧いていく。

 

かおり 遊びのことは、本気で考えますしね。(笑)

 

河合 そう!その本気って「マジメであること」そのものでしょ?

「夏遊びの自由研究」というのは、結局「自由とは何かの研究」に変わる可能性もありますし…勝手な予想ですが、それは、社会に出た時にも自分らしさを発揮して良いんだという素地にも成り得ると思うんです。

 

かおり 「自由研究」が「自由」の研究!それ良い!!(笑)

しっかり自分と向き合っている卒業生

河合 自由といえば…とても興味深いなと感じたのは、今日午前中に実施した、かおり先生の教室卒業生3人のインタビュー収録の様子です。

この教室を卒業した者として、これから入室する後輩達に向けてのメッセージにもなるようなこと…その表現は日本語だけではなく、英語でも語ってみてねと言うと、「え?!英語でも話さないとあかんの?!」と驚いていたでしょ?

 

かおり 人の話…聞いてない。私が事前にお願いしていた内容の資料も読んでない(笑)。

私が事前に送った資料をその場で見直して「あ、ほんまや。書いてるわ!」って…なんでやねん。みたいな。

 

河合 最初カメラテストで日本語で語ってもらって、そこでは当然のように、準備の足りない子ほど、わちゃわちゃする。

それでもエラいな!と思うのは、誰に見られてるとか、どういう正しいこと言わなきゃいけないんじゃなくて、きちんと「自分の言葉」で言い切るんですよ。

さらに、今度は同じ内容のことを英語で語ってみると、「あれ?さっき自分が言いたかったことと違うぞ?」って、彼らの中で出てくるじゃないですか。

日本語は主語がなくても通じてしまうけど、英語だと必ず主語がハッキリしているので、自分が言いたかったことを振り返ることができる。

 

さらに、ボクが驚いたのは、ゆりちゃんが英語で話し出すと、主語は「You」だったんだ!と聴いているボクもビックリしました。「あなたがここに通うと、こう変わるよ」っていう内容は、日本語での語りでは「あなたは」なんか言ってないのに「You」が出てきて、聴いている方も「そういうことか!」というのがありました。

 

かおり そうそう。私からあなたに受け継いでいくものなんですよね。

私はもう卒業したから。で、今度はあなたの番よっていう。

 

河合 それから、事前にお願いしていたのに、英語での語りは全く考えていなかった男性二人。

あの二人は、練習で日本語で語った後に英語で語り始めると、英語で語ってみたことで今度は日本語が最初よりも綺麗に整った表現になっていきましたよね。

 

かおり 洗練されていくんですよ。ほんとに。

 

河合 あれこそ、ボクは「Play」やと感じたんです。「自由に遊ぶ」感覚だからこそ、自分を見失っていないし、納得するまで掘り下げている。

ここに、義務感とか使命感とか重いものがあるわけじゃなく、とりあえず「Play」してみます…「Play」してみたけどなんかしっくりこない中で、結局は自分の中に納得できる納まりみたいなものがあった感じですかね。

 

かおり 人よりも良いこと言ってやろうという考えが無いですよ。

私の教え子…「カッコええな!」って思いました。

「自分にちゃんと向き合ってるこの子ら…やっぱり、さすがやわあ」って。(笑)

 

河合 それは大人の世界だと逆ですよね。

 

かおり 大人だけじゃなくて子供でも、ほんとは自分の意見があるんだけど、自分の前に、誰かが素敵なこと言ったら、自分の番となると言えなくなったりとか、同じようなことを言ってみたりということがあると思います。

それでも、今日のインタビューの時のように、最後に自分の意見を言う場面になると、自分に向き合えますよね。

だから、彼らのことを悲観的に見たことがないんです。

彼らは大丈夫やなって思うんですよね。

 

河合 「うちの子たちはみんな大丈夫です」って、よく仰っていますよね、かおり先生。

信頼してるから大丈夫なんだろうけど…なぜ大丈夫なのかの裏側が、今日見えた気がします。

 

かおり そうですね。

主体性があるから安定していく

河合 さきほど話していた「遊んでる時」の感覚と近いものがあって、誰でも初めは、めちゃくちゃ不安定なんですよ。インタビューが始まった頃は手探りだし、ふらふらした船出みたいな感じでしたしね。

かおり わちゃわちゃしていますし…「どこ行くねん。そっち行ったあかんしー」みたいな感じですよね。

 

河合 そうそう。それでも時間が経つにつれ、お互い助け合うこともなく、競い合うこともないのに、いつのまにか安定していったでしょ。

それは、主体性に基づいた納得と整えが、自分の中に起きて行ったから安定したんでしょうね。

もし、彼ら自身に主体性がなかったら、ずっと不安定なままで、横の人の顔を見て「あなたはそんなこと言うんだ。それなら自分はどうすればエエの?」となりがちでしょうね。

あの三人がカッコええなと感じたのは、主体性があるということかな。

 

かおり 最後、男の子が一人、英語表現に自信がないから、他の二人に「書いてみたこれをちょっと見て」って言ったんですよね。

同じ「クラス」って「チーム」だから、助け合うのはいつでもオッケーというのが、うちの教室でのレッスンスタイルそのまんまなんですよ。

 

河合 問われた側の対応もカッコ良かったですよね。

 

かおり うんうん。

 

河合 目を通して、じっくりと考えた上で「ええんちゃう」の一言ですよ。

長年の友達ならではの言い方ですが、聞いた方を勇気づける「ええんちゃう」…その関係性がカッコ良かったです。

 

かおり 友達に自然と聞ける空気感が良いですよね。

聞くのが恥ずかしいとかカッコ悪いとか、間違ってたらどうしようとかじゃなくて、物怖じせずに聞いたらいいやんみたいな。あの文化は、素敵やなとあらためて思いました。

 

河合 インタビュー前には、あの子達三人と「働くって何?」についてレクチャーする時間をいただいていましたが、最後に伝えていた話があります。

「未来は自分で描くもの。だから、人が描いた未来をなぞるな。」という話…これは価値づくりの現場でも、多くの大人達が、「具体的にどう歩めばいいのか示して欲しい」と未来の歩み方まで人に依存していることが多いので伝えました。

この話は、不要でしたね(笑)。あの三人は、人の未来を全くなぞっていません。

 

かおり なぞってないです!

 

河合 主体性がある人には、言う必要のない表現なんですよ。

 

かおり なかったですね。

 

河合 インタビューの始まりでは受け答えが不安定だったんだけど、途中から自分で整い始めてきたし、終わったらすごい安定した「自分の言葉」での受け答えでした。

 

かおり そうそう。自分の言葉で言えれば大丈夫なんです。

 

河合 それで、最初は英語の表現で慌てていた彼も、最後はカッコ良かったですね!

英語では思う通りに言えないから、一度紙に英語を書いて確認しても納得できない感じのところで、かおり先生に「そもそもしっくり来ていないのは、あなたの言葉になってないんじゃない?こういう表現はどうかしら?」って助け船を出しましたが…

彼はじっくり考えたあと、かおり先生の提案した英語表現は拒否しましたもんね。

「いや違う。こちらのほうがボクの言葉だ」となって…。

その振る舞い自体に主体性を感じるし、結果として彼が選んだ言葉だから整っている。

 

卒業生三人のインタビュー動画の背景には、そんなこともあったと多くの人に伝えたいですね。全然「言わせていない」しね。

一人ひとり違って良い

河合 話題を変えますが、今朝この場に到着した際、庭師の瀧澤勇二さん(暮庭という植木屋さん)のお話しが素敵でした。

この家を囲むように植えられている木が全て違う種類なんですってね。

何種類でしたっけ。

 

かおり 28種類です。

今日で29種類になりましたけどね。

 

河合 29本の植栽で、一本たりとも同じ木がないことについて、瀧澤さんに「意図的にそうしたのですか?」と聴いてみたら「結果としてそうなっただけ」とサラッと応えるんです。

無理にデザインしようとすると、同じ木を複数本植えてバランスを取ろうとしてしまうが、それぞれ根の張り方を変えたくて無心にやっていたら、たまたま全部違う木になっただけ。

 

植えられる場所が変われば陽の当たり方が変わる。

そして、木が何を求めてるかが、木の種類や高さによって違う…でもそれぞれ違うだけに根が深く張るものや横に張るもの、いろんな根の張り方でこの家の周りを取り囲んでくれて、結果としてここの土が強くなることを考えた結果だったと、サラっと言うんですよ。

上手く言おうと計算せずに、サラっと深いことを語るあの表情がまた男前なんですよ。

 

かおり かっこいいですね。

仕事人ですよね。

 

河合 その瀧澤さんのデザインコンセプトって、「子供たち一人ひとりが違っていい」というここの教室運営のコンセプトと一緒なんですね。

 

かおり びっくりしたんですよね。植えてもらってみたら、全部違う。

「みんな違ってみんないい」ってうちと一緒っ!って。

瀧澤さんの講演を聞いた時に、あー、もうこの人やわって思ったのが、ドンピシャでした!

もともとあった木も入れて今は29種類なんですけど、結果としてみんな違っていたほうが強いんですよね。

 

河合 そう!人間社会も一緒なんですよね!みんな違っていたほうが強い!

 

かおり そう、変化にも強いんです。

さきほどの「不安定は悪いことじゃない」ということが話題になりましたが、結局柔軟になれるんですよね。不安定って…柔軟であることを意味します。

変わるから。

変わっていけるから。

不安定という言葉はネガティブに受けとめられがちだけど、実は柔軟なんですよね。

 

河合 そうですよね、柔軟性に欠けると硬直化を意味しますし。

不安定という言葉がよくないという指摘がある時は、柔軟な考え方とか柔軟なプロセスを歩んでる途中なので、大丈夫ですとサラッと返してしまえば良い。

 

かおり ビルも高くなればなるほど、しなる鉄を使うんじゃないですか。

硬いと折れるから。

しなるから地震でも倒れない。

 

河合 かおり先生!今ハッとさせられましたが…

かおり先生が「しなやかな生き方をしていく子供たちの背中を押す」のと一緒で、ボク個人的には、社会に出ている大人達も、もっとしなやかになるといいなと思ってます。

ありがたいことにボクが事業活動している周りには、そういう大人が少しずつ増えています。

 

かおり しなやかな子供たちが増えると、それを見る大人が考え方を変えることもありますよね。

うちの場合だと、子供を通じてなんかそういうのもあるんだな、ありかなあみたいなね。

親御さんがそれに気づくと言うか…実はわが子に気づかされる。

 

河合 かおり先生とボクのお互いの役割分担がハッキリしましたね!

しなやかな子供が増えると、そういう柔軟性が欠けていたと自覚する親御さんが出てくるっていうことと、一方でボクは、しなやかに生きてていいんだっていう社会活動をする大人を増やすと、次世代の子供たちも「自分たちもこれでいいんだ」っていう感じてくれる。

サンドイッチ方式で「しなやかな人」で良いという促進運動みたいな感じ。(笑)

 

冒頭に話したとおり、主体性が見えない大人が多過ぎる中で、自分らしさを見失っていた人が自分のあり方を見つめ直すのは良いとしても、ソコばっかり掘り下げすぎてしまう傾向もあったりします。

「そこも大切やけど、そこを掘り下げてばかりではなく…動こうや。頭ばかり使わずに、心を働かせれば体も動くやろ」と思っていたりしますが。

 

なんだか「不安定であることは悪くない」として、子供のしなやかさの背中を押す人と、しなやかな大人を増やす活動が同時期に増えたら、自分探しジプシーみたいな傾向も減っていく可能性がありますね。

 

かおり そうですね。勝手になくなっていきますよね。

 

河合 しなやかって、別に変態って意味ではないんだけど、変化に強いって意味で変態なんですよね。そういう意味で変態で良いじゃないかと。(笑)

「わが社は時代の変化に対応し」というスローガンを目にするたびに、対応している場合とちゃうやろ…自分から変化を起こせよって(笑)

子供達に渡していきたいのは想い

かおり 教育の世界でも、よく「問題解決能力が」とか「何か起こった時にそれに対応できる力を」とかを謳ってるときもあるんですけど…それって、自分で言っていてしんどくてね(笑)

だって、子供はそんなこと教えなくても「できてるやん!」

できてないのは大人のほうとちゃうん?みたいな…。

結局、子供を見ていると「大丈夫」って思うんですよ。

 

河合 実際に、ボクらは経済活動で新たな価値づくりをしていく中で、常に問題解決じゃなくて、問題提起する人を求めていたりします。

そして、問題提起する人は、さらに探究したくなって自ら道を切り拓こうともする。

問題解決は解決したところがゴールになるけど、問題提議はそこからがスタートになる…これはあたりまえのことを言っているんですが…前者と後者では道の辿り方が違うんです。

 

例えば、プロジェクト型で新たな価値づくりをしている時でも、みんなで未来ビジョンを明確にしたとしても、問題解決型の人は道を示してくれないと動けない。

問題提議型の人はあらゆる道を自分で切り拓こうとするんです。

 

つまり、「あの山頂を目指そう!」と決めたのなら、そのプロジェクトメンバーはそれぞれ違う価値観やスキルもあるわけだから、人とは違うどんな稜線を辿ってきても構わないはずが「えっと、どうすれば良いですか?」と道まで示さないと動けない人がたくさんいます。

 

仮に道を示してあげたところで、それは誰かが描いた未来であり、他者の未来をなぞるだけのことになる。

 

かおり なぞることも大事だと思うんですけどね。最初はね。

最初はいいんですよ。全然いい。

 

河合 やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ…山本五十六の言葉どおりですね。

 

ただし、正解のない新たな価値づくりとして、「山頂はあそこな!」と決めた後は、いろんなルートで辿り着く人がいるからこそ、それぞれ違った景色を体感したことが融合するケミストリーみたいなことが、その価値づくりのクオリティが高くなるんですよ。

場合によっては、違うルートでアプローチをしてみたらあまりに危険であることに気付いたり、既に多くの人が登っていて競争が激しすぎることに気付いたりとかね。

だからこそ、大人の世界でも「人の未来をなぞるな」と言うんです。

 

かおり 私がパソコンのインストラクターをしてた時に、例えばある関数をエクセルに入れますって示すと、この値を求めるためには実はいろんな計算式があって、その計算式は一つじゃないんですよ。

他のやり方もありますよ、テキストにはこう書いてますよって説明すると、「先生だったらどうしますか」って聞く人が必ずいますね。

「それはその時その時で…前後の作業によって変わるし」と返しても「でも先生ならどうしますか?って執拗に聴いて来られました。

 

河合 要は、失敗したくないんですよ。

もちろん、失敗することで人にダメージを与えるところは、確かに慎重にしてほしいとは思うんだけど、失敗を恐れて人と同じやり方ばかりのこととなると、極論を言うと、もはやその仕事はあなたでなくても誰に任せても良いということになってしまう。

つまり、自分のやり方や道筋を見つけることに挑んでいない人は、自分の価値を下げていることに気づきにくいんです。

 

結局は「やり方の鵜呑み」が一番怖い。

なぜその未来ビジョンに向けているかを理解して共感しているわけではないということになるから、自分で咀嚼することなく鵜呑みにしてしまうのは、プロジェクトチームでもなかなかしんどくなります。

手取り足取り教えてもらわないと…となると人の分身をつくるだけですから。

 

かおり そう。コピーにならなくていいんですよね。

そもそも、コピーはいらないからね。

 

河合 庭師の瀧澤さんの言葉を借りると、一種類の木で29本植えたところで、土壌は強くならないんですよね。

 

かおり 木もね、それぞれ個性があるから同じ木にしたところで、強い弱いはある。

 

河合 そうそう。ここの本質的なところって、大人ほど説明に苦労してます。(笑)

言われたことをやりますと言われても、何一つ嬉しくないし、楽しくない。

 

かおり 大人にも木の話で喩えますか?

 

河合 木の話…しないですね。(笑)

今日の卒業生インタビューで受け答えしていたあの3人には、この話は不要ですね。

きちんと「自分」の言葉で話しているし、自分の足で歩んでいることが伝わってくる。

 

かおり あの子たちには、私の想いは届いていますね。

全然話が変わるんですけど、よく個人事業主をやってると後継者問題どうするんですかってなるじゃないですか。

それで、最初は卒業生の中から誰かが何かやってくれるといいよなあみたいになんとなく思ってたんです。

でも、「それって違うよな」って気づきました

 

英語教室というのは「手段」に過ぎないんです。

私が伝えたいのは、英語教室を残すことじゃなくて、一人ひとりが違って良いし、自分の足で歩むことができるようになってもらいたいという私の思いだよねって思った時に、別に後継者なんて考えなくても良いのかなと…。

会社であればそういうわけにはいかないかもしれないけれど、個人事業主でやっていて、私はこの想いを、次の世代につないでいけたら良いんだということですね。

今日の3人の頼もしい姿をみて、この子たちにはつなげられたなって思いました。

 

河合 これからあの子達が立つフィールドは、それぞれ違うものになるでしょうが、かおり先生のDNAみたいなのが継がれるんでしょうね。


かおり だから、逆に英語教室だけでつながっているなら、そこだけで終わっちゃうじゃないですか。これからあの子達は、色んな世界に行くでしょうし、そこでやはり良い仕事してるってことが嬉しいかな…。

それに、もう少し前までは、先生とか親とかが期待することを言わないといけないという空気の時代があったと思うんですけど、もうそこは完全に抜けていますよね。

 

河合 すごく共感します。

 

かおり 自分は何を残したいのかを考えた時に、事業を残したいわけじゃないんですよ。

想いが残ればいい。

自分がやってきたことなど誰も覚えてなくても、私の想いそのものがつながって、勝手にどんどん大きくなって、みんなが引き継いでいってくれるから、それで良いんだなって…。

影響を受けた人たちの想いを、自分が受け取ってきたので、私がまた次に渡すというのが、そろそろいい歳になってきて、良い方向に辿り着いきたと、あらためて感じた一日でした。

 

河合 後藤新平が、同じこと言っていますよね。※

財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり。

されど財無くんば事業保ち難く、事業無くんば人育ち難し。

 

ボク自身もいろんなことを確認できた良い対話でした!

ありがとうございました!

 

かおり ありがとうございました!

(参考)

※関東大震災後の救済と復興に貢献した医師であり、政治家でもあった後藤新平が遺したと言われている言葉。後藤新平が倒れた日に、三島通陽に伝えたとされる言葉として、昭和四十年に連載された毎日新聞「スカウト十話」で紹介されている。


<対談者>

河合 義徳(かわい よしのり)

1967年生まれ。文化形成デザイナー。

潜在的マーケットの開拓、経営資源の活性化、組織運営の円滑化などの事業バリューアップをなりわいとする。 2002年にコミュニケーションプロデュースと事業カウンセリングを行う有限会社バックステージを設立。ミニバスケを通じて子供の主体性が育まれる土壌づくりを行うワークショップ運営の任意団体「躍心JAPAN」団長。